ポール・カービー、BBCニュース
1月のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、特に寒々としている。私の祖父はこの場所で殺された。そして母がアウシュヴィッツを訪ねようと決心するまでには、何十年もの月日が必要だった。
祖父マイヤー・ニーヴェクは、アウシュヴィッツの悪名高い中央監視塔の影の下で殺された、約110万人の1人だ。このうち100万人近くがユダヤ教徒だった。私の母は当時、幼児だったため、父親のことは覚えていないという。
アウシュヴィッツが解放されて今年で75年。私と母は50周年の時に祖父の最後の日々について知ろうと、この場所を一緒に訪れた。
監視塔を下を歩いてくぐると、足元に走る線路の意味を実感する。この線路の上を満員の家畜用車両が通り、到着したのだ。
右手には線路に沿って、囚人が収容されていた家畜小屋のような、原始的な作りの木造の小屋が、まだいくらか残っている。それ以外は、れんがが多少の痕跡を残すだけだ。
収容所が解放される数週間前に、ナチス・ドイツはここにある殺人の道具を次々とを取り壊しにかかった。ガス室や火葬場は破壊・爆破され、さまざまな記録も数千点を残して壊された。
地獄への長い鉄道の旅
祖父は、オランダからこの収容所まで移送された最初の一団にいた。アウシュヴィッツのあるポーランド南部は当時すでにナチスに占領されていた。
38歳だったマイヤー・ニーヴェクは1942年7月10日、ドイツ国境に近い地元から、北東部ヴェステルボルクに作られた通過収容所へ鉄道で行くよう命じられた。
その5日後、2000人を乗せた家畜用列車がヴェステルボルクと、中部アーメルスフォールトの別の通過収容所から出発した。
この列車は7月17日にアウシュヴィッツに到着した。当時、線路はビルケナウ収容所の中まで引き込まれていなかったため、乗っていた人々は最後の道のりを歩かなくてはならなかった。
ただちに449人のユダヤ系オランダ人が、「ツィクロンB」と呼ばれるシアン化合物系のガスで殺された。
他の人たちは、もう少しだけ長く生きられた。マイヤー・ニーヴェクもその1人だった。オランダ赤十字社による記録では、彼は腕に焼きごてで47483という数字を刻まれた。
私たちはその後、祖父がナチスの記録用紙に「ラントアルバイター(ドイツ語で農業労働者)」と書き記していたことを発見した。
労働に適していると判断されれば強制労働に駆り出されることが多かったからだ。この罪のない嘘によって、祖父は1カ月と1日だけ、長く生きることができた。祖父は家畜商の家の出身で、自身は保険仲介業者として働いていた。
赤十字社によると、祖父は最期の時をビルケナウ男性収容所の第12ブロックで過ごした。
私たちが訪れた火葬施設の跡は、周りが泥だらけだった。私と母はそこで居合わせた団体と一緒に、アウシュヴィッツ生存者で作家のエリ・ヴィーゼル氏の話を聞いた。
「全ての犠牲者がユダヤ人だったわけではありません。しかし、全てのユダヤ人が犠牲者なのです」と彼は語った。
聞いていた人たちの目から涙があふれ、ユダヤ教の追悼の祈り「カディシュ」が捧げられた。
これまで誰も、祖父が死んだ場所で祖父のためにカディシュを捧げた人はいなかった。それだけでも、この旅は有意義だった。
ユダヤ系オランダ人とホロコースト(大虐殺)
- ユダヤ系オランダ人14万人のうち、10万2000人がホロコーストで亡くなった
- ロマ系オランダ人やシンティ・ロマ220人が、ナチス・ドイツによって殺害された
- 1942年7月17日、ユダヤ系オランダ人が初めてアウシュヴィッツに連行され、2000人が到着した
- 女性や子どもなど449人が直ちに殺害された
- 1251人の男性や少年には、47088から47687の番号が与えられた
- 当初697人いた女性と少女のうち、300人には8801~8999および9027~9127が割り当てられた
ブロック12を探す
私たちはそこで、マックスという名のオランダ人男性と話した。ひげのマックスは背中を丸めてうつむいていた。この場所と状況に圧倒されていたのは明らかだった。
マックスの父は、私の祖父と同じ輸送でアウシュヴィッツに送られ、到着から6日後、1942年7月23日に亡くなった。
ブロック12を見つけるため、私たちはアウシュヴィッツの生存者を探した。ナチス親衛隊の「死の天使」と呼ばれたヨゼフ・メンゲレによる、恐ろしい双子の研究を生き抜いたという60代の男性に出会った。しかし50年の時がたち、彼は収容施設の番号付けを覚えていなかった。
入り口に戻る途中、私たちは地図にブロック12の文字を見つけた。ブロック12は線路の終点に、収容所の裏側に向かってあった。
施設内に閉じ込められるのが気がかりで、私たちはそのまま収容所を出ることにした。私たちのミッションは半分しか終わっていなかった。
母がブロック12跡のれんがの山を見つけ、父親のためにろうそくに火をともすまでには、さらに3年がかかった。母はろうそくの傍らに、自分の子どもと孫の写真を置いた。
祖父の両親やきょうだいは、アウシュヴィッツとソビボルの強制収容所で全滅した。しかし、決して忘れられたわけではない。
アウシュヴィッツ博物館には、祖父の死亡証明書の写しが残っていた。彼がガス室へ送られてから8日後の日付だった。ナチス親衛隊の一員でビルケナウの火葬施設主任として悪名高い、ヴァルター・カケルナクの名義で署名がされていた。カケルナクは戦後、戦犯として裁かれている。
博物館によると、アウシュヴィッツで死亡証明書が発行されたのはわずか6万9000人、ユダヤ教徒に限ると2万9000人だった。マイヤー・ニーヴェクはその1人だった。
一方、圧倒的多数は収容所に到着してすぐに殺され、登録されることすらなかった。
ナチスは50個ほどの死因リストを作り、それを使い回すことでガス室での大量殺人を隠そうとした。
死亡証明書の右下には、マイヤー・ニーヴェクの偽の死因「Herzschwäche bei Darmkatarrh(腸炎による心不全)」が記載されている。
ナチスのホロコースト、その決定的瞬間
オランダからビルケナウへの初めての輸送は、ナチスによるユダヤ系オランダ人の機械的な大量虐殺として、初の事例だった。
ホロコーストそのものにとっても、決定的な時期の出来事だった。
さかのぼること数週間前の1942年6月22日、親衛隊幹部のアドルフ・アイヒマンは欧州のユダヤ人に対する殺害計画を任され、ユダヤ人1000人を乗せた特別列車をフランスやオランダ、ベルギーからアウシュヴィッツへと走らせる計画を発表した。
国家保安本部が運航する列車で、多くのユダヤ人がアウシュヴィッツに運ばれた。この時、ビルケナウにはすでにスロヴァキアやフランスから数千人のユダヤ人が運ばれていた。
マイヤー・ニーヴェクを乗せた列車がアウシュヴィッツに着いたその日、別のナチス幹部がこの収容所を訪れていた。親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラーだ。
今の私たちがこのことを知っているのは、同収容所のルドルフ・ヘス所長が日記を残したからだ。
ヒムラーがどのようにビルケナウを視察し、厨房や診療所を訪れたか、ヘスは書き残した。ヒムラーは1942年7月17日、列車の到着から、直ちに殺される者の選別、ガス室での殺人、そして遺体の撤去に至るまで、大量殺人の一連のプロセスを見ていた。
ヒムラー自身の日記には、ユダヤ系オランダ人の殺害を見ていたことは一切書かれていない。しかしアウシュヴィッツ滞在中の1942年7月17日から18日の間に、ヒムラーはビルケナウの収容人数を20万人にまで拡大する。
ビルケナウでのユダヤ人根絶作業は、1944年11月まで続いた。
ナチスの強制収容所では鳥が鳴かないと言われ始めてから、長い年月がたった。アウシュヴィッツにおいて、それは紛れもない事実だった。
暮れ行く陽の中で祖父が殺された場所、その壊れかけたがれきに最後に目をやると、かつて囚人たちが掘った塹壕に沿って、一匹のキツネが急ぎ足で通り抜けるのが見えた。
灰色のその姿は、ほとんど目に留まらない。この荒れ果てた場所では珍しい、命の気配だった。
(英語記事 Searching for traces of my grandfather at Auschwitz)
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January 28, 2020 at 05:09PM
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