ある日の暮らし
今回から2か月に1回、「1年前に何が起きていたのか」を確かめながら、新型コロナウイルス感染症(以下、COVID-19)の流行を振り返ってみることにします。
この文章を書いているのは2020年11月23日です。日本の感染者は13万人を超え、亡くなった方も昨日(11月22日)の時点で1,935人にのぼり(ジョンズ・ホプキンズ大学の集計)、世界の感染者の合計はおよそ5,800万人、亡くなった方も138万人を超えました。昨年の今頃、いったい誰がこの状況を想像できたでしょうか。
この記事を読んでくださる皆さんは、昨日どんな一日をお過ごしでしたか? 日本ではしばらく前から感染の再拡大が明らかになってきました。しかし、経済への刺激を狙った「Go Toキャンペーン」などもあって、それなりの人出だったようです。横浜に住んでいる私も、すこし迷ったのですが、県外への移動となる墓参りは延期として、かわりに近くのイベントに出かけました。一つは、神奈川近代文学館で開催されている「大岡昇平の世界展」です。3月半ばから開催のはずだったのが、コロナ禍のため延期になり、10月初めから開催されています。入館の際には体温の検査があり、マスク着用、入口での手指のアルコール消毒ののち展示室に入りました。見学者はそれほど多くはなかったので(現在の状況ではよいことかもしれませんが、主催者としては別の問題があるでしょう)、対人距離を1ⅿ以上開けてほしいという要請もさほど気になりませんでした。『レイテ戦記』などの創作の過程を見ることができて、迷ったけれども来てよかったと思いました。
横浜はたいへんよい天気で、神奈川近代文学館がある山手の港の見える丘公園はけっこうな人出でした。小さいお子さんを連れた家族連れも多く、ひょっとすると気分転換のために県内ならばいいだろうという思いかもしれません。もっとも、この日の元町・中華街駅の午後3時の人出は昨年の3割減だったのとのことです(朝日新聞、2020年11月23日、朝刊、1面)。その後、横浜ユーラシア文化館へ。こちらは「杏咲く頃―絵筆と歩いたシルクロード 小間嘉幸絵画展」です。中学校の美術教師だった小間氏が1970年代からシルクロードの各地を描いた多くの作品が展示されていて、やさしい筆致にたいへん癒されました。入館の際には、体温検査にくわえて連絡先などの記入が求められます。この手続きは、日時指定のオンライン・チケットを購入すると事前に済ませることができます。この日は、同館主催のスタチュー・ミュージアム(人間彫刻)も開催されていて、横浜にちなんだ「赤い靴の女の子」などのパフォーマンスもあって、幸運にも無料でした。現在、多くの博物館や美術館がオンライン・チケットの事前購入の制度を導入しています。それは密を避けるということなのですが、なんとも難儀な時代です。大学のゼミナールの学生とよく博物館などを見学するのですが、今年はそれができません。普段であれば、学生と一緒に見学してから、その後、中華街で食事ということになったはずなのですが。
1年の歴史を振り返ってみる
「感染症の歴史学」が専門である私にとって、この1年はこれまでとはだいぶ違ったものでした。昨年末、つまり2019年末のどこかの段階で、中国の湖北省、武漢市で、後にWHOによってCOVID-19(Coronavirus Disease)と命名されることになった新興感染症(新型コロナウイルス感染症)が発生したと考えられます。WHOの命名は2月11日(ジュネーブ時間)でした。これは、「武漢肺炎」などの地名のついた名前を避ける意味がありました。ご存知と思いますが、病原体である新しいウイルスは、SARS-Cov-2 (Severe Acute Respiratory Syndrome Coronavirus 2)と呼ばれています。
武漢市の衛生健康委員会(委員会という名前ですが、衛生行政を主管する機関です)が原因不明のウイルス性肺炎の発生を発表したのは、大晦日の12月31日のことでした。年が明けて、2020年1月には中国での感染拡大が顕著になりました。中国政府ははじめ、この感染症を十分に制御できるとしていました。ヒトからヒトへの感染はないとされていたからです。しかし、事態は悪化し、ヒトからヒトへの感染が確認されます。中国政府は湖北省の役人を免職とし、本格的な対策に着手しました。しかし、旧正月をひかえ行事も多く、たくさんの人々が海外を含めさかんに移動をはじめました。この数週間の時間をどのように使ったかをめぐって、中国政府の初期対応が遅れたとする批判があります。
旧正月直前の1月23日、中国政府は武漢市や湖北省のロックダウンを実施しました。これは世界じゅうの人々を驚かせました。武漢市の人口は1,000万人を超え、湖北省もおよそ6,000万人、つまり、英仏伊などの人口に匹敵するからです。2月から3月には感染は韓国や日本に拡大し、イタリアやスペインなどを中心にヨーロッパに広がりました。こうした中で、WHOがパンデミックを宣言したのは3月11日のことでした。
中国をはじめとして、各国が選択したのは、ウイルスとの接触を回避する行動の変容、それを都市や国家を単位として実施するロックダウンでした。COVID-19は新興感染症であったため、治療薬やワクチンがなく、古典的な公衆衛生的対策を取らざるを得なかったのです。しかし、これは、人間の本質的な特徴である、「集まって一緒に食事をしたり、協力して価値を生み出し、それをやり取りする、そのために移動する、時にはそれを海を越えて行う」こと、すなわち文明化のトレンドに逆行するものでした。その影響は甚大なものでした。
日本でも、3月2日から学校の一斉休校が実施され、4月7日には、東京などの7都府県を対象として緊急事態宣言が出され、16日に全国に拡大されました。しかし、ロックダウンは行われず、自粛が対策の基調となりました。夏に予定されていた東京オリンピック・パラリンピックの開催も1年延期となりました。
大統領選挙を控えていた米国では、こうした状況もどこか対岸の火事のように意識されていました。しかし、5月頃には感染が広がりはじめ、対策のあり方が大統領選挙の最大の争点となりました。現在でもいろいろな動きがあるようですが、民主党のバイデン候補が次期大統領に選出されたのはCOVID-19の感染拡大のためだと言えるでしょう。しかし、11月末の現在でも収束の様子は見えません。
ヨーロッパでの感染はいったん抑制されたかに見えましたが、秋になると感染の再拡大が明らかとなり、いくつかの地域では、再びロックダウンが選択されるようになっています。イランなどの中東、南米諸国、ロシアやインドなどでも感染が広がりました。当初、アフリカへの感染の拡大が心配されていましたが、現在のところ、その状況は比較的抑制されているようです。
こうした中で、東アジアや東南アジアでは感染はかなり抑制されているかに見えます。また、中国は感染の抑え込みに成功し、経済活動も回復基調にあるようです。しかし、世界の多くの国々は依然として、感染を制御しながら同時に経済活動を維持するという、本質的には異なったベクトルの対策を行わなければならない状況に直面しています。
コロナ・パンデミックの歴史化
治療薬やワクチンの開発も進み、同時に、ウイルスとの共生をうたった「ウィズ・コロナ」という言葉もよく耳にするようになりました。和製英語のようで、小池東京都知事が使ったことで広まったようです。コロナ禍の中でカタカナ語がたくさん使われています。このことについてもいずれ考えてみたいと思っています。
こうした中で、最も大きな問題は、ほぼ1年が経過する中で、パンデミックの収束を展望できない、ポスト・コロナはいったいいつやってくるのかがわからないこと、また、それがどんな社会なのかを見通せないことではないでしょうか。生活の基盤が失われる状況も増えています。実際のところ、「くたびれた」というのが実感ではないでしょうか。
歴史学をなりわいとしている私にとって、ましてや「感染症の歴史学」を専門とする者として、「COVID-19のパンデミックを歴史として書く」という仕事はたいへん取り組みがいがあります。私がこれまで扱ってきた感染症の多くは、19世紀や20世紀前半に流行したペストなどの、今となっては起承転結がはっきりしていた疾病でした。もちろん、過去の感染症の歴史に光をあてる作業には大きな意味があります。また、現在進めている、風土病の制圧の過程を整理して疫学的資料を保存する作業も大切です。けれども、眼前にあるパンデミックの歴史を書いてみたいという気持ちも抑えがたいものでした。それを率直にお伝えしたところ、この「B面の岩波新書」への寄稿・連載を提案されました。
歴史学の基本的な作法は、きちんとした資料によって事実に近いと思われることがらを示し、順序を整理し、それが起きた要因を示すことです。見逃しがちな出来事を発掘し、それを歴史的事実として提案することも大切です。その意味では、ここ1年ほどの間は、明けても暮れてもコロナ、コロナ、コロナという日々でしたから、いったい何が起きていたのかを確かめるだけでもたいへんです。ましてや、起承転結が見いだせない中で作業を始めることには勇気が要ります。また、すぐに活字にしてしまうことにも躊躇がありました。
今回、WEB版への寄稿・連載という形で、まず、大きな見通しを書いてみることにしました。進行の過程でいろいろなご意見も伺えるでしょうし、誤りを修正し、新たな事実にも巡り合うことになるはずです。そんな作業によって、まず2020年の出来事を、「1年前のコロナ」というかたちで整理してみようというわけです。
歴史化のための作業
2020年1月、正確に言うと、武漢でのロックダウンが開始されるすこし前から私がはじめたのは、複数の新聞を読んでスクラップすること、外務省の「海外安全情報」をすべて受信し、在外公館が発信している情報を確認し、必要と思ったものをデータ化しておくことでした。大きな出来事があったときには新聞をたくさん買ってきて論調を比較したり、目についた雑誌もなるべく幅広く購入しておきました。これらはあとあと図書館で見ることもできるでしょうが、線を引きながら読みたい気持ちがあります。
有難いことに、感染症の歴史学を通じて友人となった専門家からもさまざまな情報を得ることができました。友人のO医師にお願いしているのは、私が喋ることが適切かどうかを教えてもらうことです。はじめは直接会うこともできたのですが、後にリモートになりました。残念ながら、ほぼ半年お目にかかっていません。でもやりとりにお付き合いいただいて、本当に感謝しています。
3月になると、新聞や雑誌など、メディアの取材を受ける機会が出てきました。これはあまり経験のないことだったため、感じることも多くありました。大学人として、小中高の生徒さんを対象とした新聞や雑誌の取材にはなるべく応じるとか、そんな配慮もしました。夏前になるとそれらがひと段落し(これは中国の状況が抑制され、感染拡大の中心が米国などに移ったからだと思います)、こんどは学会関係の仕事が増えました。書くもの、喋るものはなるべく重ならないようにと思ったのですが、義理あるところからの依頼も多く、断り切れずに同じような内容を喋った場合もあります。しかし、なるべく多くの方々から意見を伺ってみたい気持ちもありました。その中には、日本熱帯医学会などの医学や公衆衛生の学会での発表もありました。また、高等学校の先生から連絡があって、歴史教育に関わる学会からのお誘いもありました。2022年度から高等学校の地理歴史の科目が再編され、「歴史総合」が新設される中で、学習指導要領で感染症を取り上げることが求められているからです。どんな感染症を取り上げるのが適切か、が最大の関心のようです。
いま心掛けているのは、インタビューによって(実際には依然としてリモートです、しかし、記録が容易という利点もあります)、2020年のパンデミックの下での生活の記録を残すことです。留学生も含め学生の意見を集めておくこと、また、なるべく多様な職業の方々、外国の方々も含めて率直な印象をたくさん記録することにしています。
初めに述べましたように、これから2か月に1回を目標に、1年前のCOVID-19のパンデミックの状況を私なりに描いてみたいと思います。その基本的な方針は、
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事実の確認のために、できる限りダブルチェックを行う。事実関係に関しては、異なった資料で確認しながら書く。
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日本だけではなく、世界の状況の中でのコロナ禍を具体的に書く。ただし、実際に現場に行くことができるわけではないから、体験というわけにはいかないことに留意する。
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「小さな歴史」をすくい取る、です。
今回の企画は、村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる―─私たちの提言』(2020年7月17日発行)という岩波新書に「ロックダウンの下での「小さな歴史」」という文章を寄せたことがきっかけです。速達で原稿依頼を受け取ったのが4月中旬のこと、締め切りは連休明けの5月12日でした。比較的早く原稿を送った記憶があり、数回の校正をへて、刊行はほぼ2か月後の7月中旬でした。
この文章は、中国政府がロックダウンという強硬な対策を選択した背景やその方法、ロックダウンを可能にした要因をごく簡単にまとめたものです。そして、こだわったのはロックダウンの下で、武漢で生活している人々の日常です。これは、緊急事態宣言の下で、ロックダウンは行われなかったとはいえ、ステイホームという状況に置かれる中で、日々の暮らしの中で、何を感じ、何に怒り、何を楽しみとしていたのかがとても大切だと感じたからです。
そんな中で、ある取材に対して、1日の新たな患者の数は何人で、また、亡くなった人は何人などという報道があふれる中で、患者や死者の一人ひとりにさまざまな暮らしがあるはずなのに、それらが単に数字に置き換えられていることに問題を感じる、という趣旨の発言をしました。この考えは現在でも変わっていません。今回のパンデミックを歴史化するならば、COVID-19の流行という大きな歴史と同時に、一人ひとりの生活を描くことが必要ではないか、という思いはむしろ強まっています。そして、自分自身もその一人ということになります。岩波新書の文章の末尾に、「最後に、記録に残すという意味で、私は横浜の住民、マスクはまだ届かない(五月一二日)」と書きました。その後、マスクが届いたのは、5月26日のことでした。
前史としてのSARSとMERS
「まくら」が長くなってすみません。いよいよこれから、COVID-19のパンデミックを歴史化する試みに挑戦します。中国の武漢で、原因不明のウイルス性肺炎が発生していることが発表されたのは、2019年12月31日のことでした。ですから、今回は1年前ではなくて、その背景をもう少し前から考えてみましょう。
感染症の流行はどこまで遡って考えるのがいいでしょうか。これまで書いた文章の中でも、人類が農業を開始し、野生動物を家畜化したほぼ1万年前まで遡るのが妥当だと書いたことがあります。これは、W・マクニールやA・クロスビーなどの感染症の歴史学の先達や、感染症を人類史的な視点から論じてきた山本太郎などもひとしく指摘していることです。しかし、1万年というわけにはいきませんから、今回は、21世紀になってからの、SARSやMERSというコロナウイルス感染症、そして、2009年の新型インフルエンザの流行から、2020年のCOVID-19のパンデミックを説き起こすことにします。
2002年から03年、SARS(Severe Acute Respiratory Syndrome、重症急性呼吸器症候群)という新興感染症が流行したことを覚えておられる方も多いでしょう、およそ8000人の患者、そのうちわけは、中国が最多で5327人、香港(1755人)、台湾(346人)、カナダ(251人)、シンガポール(238人)、ベトナム(63人)、米国(27人)などで、およそ40か国に伝播し、774人が亡くなりました。この時、感染した台湾人が日本国内を旅行していたのですが、幸いなことに感染は広がりませんでした。世界は、この新興感染症の登場に震えました。2001年の米国同時多発テロの後だったこともあり、21世紀はテロと感染症によって幕を開けることになったと私はあるところに書いたことがあります(飯島渉「SARSという衝撃――感染症と中国社会」『現代思想』第31巻第9号、2003年7月)。その流行は、2003年6月ごろまで続き、航空機などでの移動が制限され、各国が封じ込め対策を行うと、7月には終息しました。患者が感染源になるのは重症化した後であるため、SARSは患者を隔離する古典的な対策によって抑え込むことが可能だったとされます。その後は発生していません。SARSの流行は、中国では医療や公衆衛生の面での政策転換のきっかけとなり、感染症対策の基盤が形成されたのですが、このことは、次回以降に。
2013年にはMERS(Middle East Respiratory Syndrome、中東呼吸器症候群)というコロナウイルス感染症が流行しました。封じ込めには成功したのですが、現在でも、散発的な発生が確認されています。それは、ウイルスがラクダに定着してしまったためで、ときおり、ラクダからヒトへの感染が発生しています。2015年には韓国で中東から帰国した患者から比較的な大きな感染が発生しました(患者186人、死者38人)。これも韓国での感染症対策の基礎がつくられるきっかけになったのですが、もう少し先の話題とします。2014年からの西アフリカにおけるエボラ出血熱の発生にも触れたいところです。致死率のたいへん高いウイルス性の感染症で、2015年までに数万人の患者のうち、1万人以上が亡くなりました。21世紀になってから、こうしたウイルス性の感染症がたびたび発生するようになっています。それは、開発の進展によって人間の活動と生態系との距離が小さくなったためだと考えられています。つまり、新興感染症の発生のメカニズムは1万年前と同じなのです。
幸いなことに、こうした感染症は日本では広がりませんでした。そのため逆に2020年の感染症対策が立ち遅れたことも指摘されています。しかし、日本でも2009年には新型インフルエンザが発生し、患者や死者が出ていました。ここで、振り返ってみるべき過去として、メキシコ発とされる豚由来の新型インフルエンザを取り上げてみましょう。
新型インフルエンザというレッスン
歴史の常識を覆して、まず収束の時点から2009年の新型インフルエンザを振り返ってみましょう。2009年5月に最初の日本国内での発生が確認され、秋には全国に広がりました。日本での感染のピークは11月で(通常の季節性インフルエンザのピークは、普通1月から2月)、亡くなった方はおよそ200人、これは予想よりもかなり少なくてすんだのです。
それでは、収束はいったいいつだったのでしょうか? 東日本大震災が発生してまもない2011年4月1日の新聞に小さな記事が出ています。震災がなければこの記事はもっと大きな扱いだったはずです。それによると、厚生労働省は、3月31日、2009年から10年にかけて流行した新型インフルエンザの感染症法における位置づけを季節性インフルエンザと同じ扱いとすることとし、名称も「インフルエンザ(H1N1)2009」とすると発表しました(毎日新聞、2011年4月1日、朝刊、24面)。紙面の別の個所には、被災した東北の町の夜の闇を照らすのは往来する自動車のヘッドライトだけだという写真や、被災者を癒すための足湯のやり方を学ぶボランティアの写真が掲載されています。実は、こうして感染症への理解をかえることが収束だったのです。新型インフルエンザも、世界じゅうで流行が広がり、多くの人々が免疫を獲得すると、小さな流行を繰り返す季節性のインフルエンザとして定着しました。2009年から10年にかけて流行した新型インフルエンザもこうして季節性のものとして扱われることになったのです。
2010年6月には、厚生労働省の新型インフルエンザ対策総括会議(座長は、金沢一郎・日本学術会議会長)が感染症対策のあり方を提言する報告をとりまとめました。医療体制について、流行が急速に広がった地域でパンク状態となったので、機能や体制を整理すること、ワクチンについては国がメーカーを支援して国内生産体制を強化すること、効率的な集団接種の検討などを指摘しています。また、危機管理や広報を専門に担う組織の設置や人員・体制の大幅な強化、専門のスポークスマン(そう書いてあります、現在では、スポークスパーソンと言うべきでしょう)を配置することなども提言されました(毎日新聞、2010年6月8日、夕刊、6面)。2020年のCOVID-19のパンデミックの中で問題になったことがほとんど指摘されていることに驚かされます。東日本大震災がなければ、いくつかの提言は実現されたかもしれません。しかし、実際には、2011年3月11日の東日本大震災が起こると、地震による津波や福島第一原子力発電所の事故による大きな被害の中で、新興感染症への関心は薄れてしまったのです。
実際のところ、2009年から10年の新型インフルエンザの流行とはどんな状況だったのでしょうか? 皆さんはどのくらい覚えていますか? 正直に申します、私もうろ覚えでした。けれども、新聞をスクラップしていたので、COVID-19のパンデミックの中でそれを読み返し、当時の状況を振り返ることができたのです。
2009年4月下旬、メキシコで感染が確認され、WHOが警戒度を引き上げる中で、日本政府も4月28日、新型インフルエンザの発生を宣言し、検疫体制を強化しました。2005年にWHOが作成した「世界インフルエンザ事前対策計画(WHO Global Influenza Preparedness Plan)」に準じて、2005年に策定し、2009年2月に改訂を行った「新型インフルエンザ行動対策計画」によって、発生地への渡航自粛、入国便への機内検疫(水際検疫)、発熱外来の設置などを行いました。しかし、こうした対策は重症度の高い鳥インフルエンザを想定したものでした。
鳥インフルエンザは、20世紀初頭、世界で数千万人が亡くなったスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)で、大きな被害が出ることが危惧されていました。もし、日本で同じ流行が起きると、70万人近くが亡くなるという予測もあったのです。
ところで、この時の首相は誰だったか覚えていらっしゃいますか。自民党政権、麻生太郎首相、そして舛添要一厚生労働大臣という布陣でした。また、当時は、橋本徹大阪府知事、WHO事務局長はマーガレット・チャン女史(香港でSARS対策の指揮をとった)だったことも付け加えておきましょう。
2009年の状況をもう少し振り返ってみましょう。5月16日に渡航歴のなかった神戸の高校生の感染が確認されます。これは、新型インフルエンザを水際検疫で防ぐことが難しいことを示すことになりました。周辺も含め休校措置がとられます。この時、高校の先生がお詫び会見をしたことを覚えていらっしゃる方も多いでしょう。私は、お詫びは必要ないと思ったことを覚えています。6月11日(現地時間)、WHOはパンデミックを宣言しました。しかし、過剰な反応をいさめ、渡航・貿易の制限や国境の閉鎖はすべきではないとしていました。
総じていえば、日本政府は、強毒性の鳥インフルエンザを想定した対策を進めました。休校やイベントの自粛による生活への影響が大きかったという記憶が残りました。マスクの不足もありました。航空会社へも大きな影響が出ました。当時、経営再建の途上にあった日本航空も減便や路線の廃止を行いました(読売新聞、2009年8月8日、朝刊、8面)。日本各地で感染が広がり、8月15日沖縄で最初の死亡例がありました。腎臓に疾患のある57歳の男性で、重症者の多くは糖尿病などの持病を抱えている方でした。舛添大臣が日本でも流行の段階になったことを宣言します。実際には想定外の事態で、米国疾病予防管理センター(CDC)も夏には流行は消えると予測していたのですが、期待は裏切られたのです(読売新聞、2009年6月30日、朝刊、3面)。
夏にもかかわらず感染がひろがり、学校の部活動などでの集団感染が起こり、9月に入って学級閉鎖や学年閉鎖が行われました。感染経路は飛沫と接触であるとして、対策としてはマスクや手洗などが有効で、不要な外出を避けることが薦められています。
2009年の新型インフルエンザは弱毒性で、特に日本の状況は諸外国に比べてもマイルドなものでした。2009年12月までの段階で、死者は、米国(約3,900人)、メキシコ(656人)、カナダ(329人)、英国(270人)、イタリア(107人)、フランス(92人)、日本(85人)、ドイツ(77人)など、人口100万人あたりに直すと、米国が12.6人だったのに対して、日本は0.6人にとどまりました。そのため、WHOの対策が過剰なものだったのではないかという批判も起こりました。
新型インフルエンザの流行の中で、自民党から民主党への政権交代がありました。秋から冬にかけて感染が再拡大しましたが、翌年の2010年3月ごろには沈静化しました。そして、先ほど紹介した新型インフルエンザ対策総括会議が3月31日に開催されたのです。鳥インフルエンザを想定した対策がすすめられたため、水際検疫を強化し、学校の臨時休校が実施されたのは「やりすぎだった」という認識も示されました(朝日新聞、2010年4月1日、朝刊、5面)。
2011年3月11日に東日本大震災をへて、2012年4月に、民主党に加えて公明党が賛成して「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が成立します。共産党や社民党は法案に反対し、自民党は本会議を欠席しました。以後の経緯は多少複雑で、2012年12月に自民党が政権に返り咲き、安倍晋三首相のもとで長期政権が始まります。2013年になって中国で鳥インフルエンザの発生が確認されると、それをうけて、同年4月「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が施行されることになりました。つまり、民主党政権の下で成立した法案が自民党政権の下で施行されたのでした。2013年6月には同法にもとづく行動計画も策定されました。政府が「緊急事態」を宣言すると、都道府県知事が対象地域の住民に不要不急の外出自粛を要請できるとしたものです。2020年のCOVID-19のパンデミックへの対策は、以上のような経緯の下で成立した法律によって進められたのです。政権に返り咲いた安倍首相の下で、感染症対策の責任者が誰だったのかは意味ある問いです。それは田村憲久厚生労働大臣でした。現在の菅義偉首相は、こうした経緯をもとに田村大臣を再び起用したものと思われます。
歴史に学ぶことができるか
2020年のCOVID-19のパンデミックは、先ほども触れた約100年前のスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)のパンデミックと比較されることが多いようです。たしかに、ウイルス性感染症としてヒトからヒトに感染することからすれば、学ぶべきことはたくさんあると思います。同時に、COVID-19への対策は、感染者との接触の確認などのコンタクト・トレーシングなどをはじめとして、ITやAIを活用しての感染の管理が行われ、その是非も問われるようになっています。その意味では、単純な比較よりも、COVID-19は前例のない新しい感染症であると見ることが必要です。
もちろん、COVID-19のパンデミックについては、これまでのさまざまな感染症対策との共通点、つまり歴史に学ぶべきこともあります。現在、日本でも感染の再拡大が明らかとなり、感染対策と経済の調和点を見出すことが求められています。もし、私たちが活動を完全に制限すれば、ウイルスとの接触の機会はほとんどなくなり、その制御が可能です。しかし、それは現実にはかなり困難です。つまり、感染対策と経済は真反対のベクトルなのです。しかし、歴史の中で、人々はなんとかそれをのりこえ、サバイブしてきました。感染症の歴史学が教えているのは、感染対策と経済という要素に社会という要素を組み込んで、三つの調和点を意識することが大切だということです。これは「神の計算」の領域であり、不遜な考え方かもしれません。さらに言えば、社会と同時に個人という要素を加え、四つの調和点が大切なのかもしれません。このことは、おいおい考えてみることにしたいと思います。
はっきりさせることは難しいのですが、中国の武漢で、2019年のどこかの段階で、新型コロナウイルス感染症の第一患者が発生したと思われます。しかし、それはその時には気付くことができないものでした。年末にかけて原因不明の肺炎が広がり、事態はしだいに深刻の度合いを加えていきました。政府関係者や医療・公衆衛生の専門家はもうすこし早くからその事実を知っていたはずですが、それが発表されたのは大晦日の12月31日のことでした。
武漢で肺炎が発生したというニュースは私も目にしていました。まず思ったのは、SARSの再興だったら困るなということでした。入試やいろいろな会議が一段落すれば、2月末から韓国・済州島での風土病の調査に行くことになっていて、それに影響すると困ると漠然と思ったのです。しかし、事態はそうした思いをはるかに超えて、きわめて甚大な影響を世界じゅうに及ぼす新興感染症のパンデミックとなったのでした。
(つづく)
* * *
飯島渉(いいじま わたる)
1960年生まれ。青山学院大学文学部教授。「感染症の歴史学」を専門とし、東アジアのペスト史やマラリア史を研究してきた。『感染症の中国史』(中公新書、2009年)、『高まる生活リスク――社会保障と医療』(共著、中国的問題群、岩波書店、2010年)、『感染症と私たちの歴史・これから』(清水書院、2018年)など。長崎大学熱帯医学研究所客員教授、獨協医科大学特任教授、目黒寄生虫館理事。感染症対策の資料を整理・保存する「感染症アーカイブズ」の代表もつとめている。
*本連載は偶数月に更新します。次回は2021年2月中旬の予定です。
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December 15, 2020 at 07:03AM
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