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3.11から 私の10年(12) 女川町竹浦・持田美紀 - 株式会社河北新報社

3.11から 私の10年(12) 女川町竹浦・持田美紀

女川港で旅客船の帰りを待つ持田さん。新たに整備された女川町離島航路ターミナルで、参拝客らの対応に当たる

 2011年の東日本大震災から来年3月11日で丸10年となる。石巻かほくは11年6月11日から12年3月9日まで、被災体験を克明に記録した「私の3.11」を連載した。当時の巨大地震と津波を証言した石巻地方の被災者たちは、あの日を生き抜いて懸命に歩みを続ける。何を思い今、そして未来へと紡ぐのか。新たな軌跡を証言してもらう。(相沢美紀子)

   ◇

■女川町竹浦、旅客船会社従業員 持田美紀さん(43)

 東日本大震災の津波で女川の町は甚大な被害を受け、新しい街並みに生まれ変わりました。夫と暮らしていたアパートがあった場所も今となっては定かではありませんが、あの日、流されながら見た景色は、ふとした時に目に浮かびます。

 被災後、小学2年の長女(8)、保育園年長の次女(6)に恵まれました。その間、二つの避難所、プレハブの家、借家を転々とし、2017年春、竹浦地区の災害公営住宅の完成を待って入居しました。

 半島部の竹浦は、被災して多くの人が地元を離れたことから、行政区長さんに誘われたのがきっかけです。高台の自宅からは、輝く女川湾と金華山が見えます。約30世帯の全員が顔見知りで仲が良く、子育てにうってつけの環境です。

 地域に伝わる竹浦獅子振り保存会に誘っていただき、参加しています。今年は新型コロナウイルス感染拡大で休止中ですが、笛を特訓中。音を出すのは難しいです。娘たちは太鼓を担当し、華麗に演じる地域の人に憧れて、練習を心待ちにしています。

 夫の転職に伴って女川に移り住み、2年後に被災しました。海から離れた札幌市で生まれ育ち、町をのみ込むほどの津波は考えもしませんでした。2階だから大丈夫と思って避難せず、辛うじて助かりました。

 その後悔から、娘たちが言葉を理解し始めた頃から「大きな地震が来たら逃げよう」と繰り返し話すようにしています。「(避難所だった)保育所に住んでたんだよ」とか、深刻にならないように日常の中で語り掛けています。女川で生まれ育った人たちが代々語り継いで来たように、教訓を伝えていきたいです。

 夫が営む金華山航路の運航会社で、窓口業務を担当して1年半になります。全国から訪れる参拝客と接する中で、観光資源としての金華山の偉大さや、地域の魅力を再認識しています。

 子どもを介してママ友もできました。たまたま移り住んだ女川でしたが、温かい地域の人に助けられ、居心地の良い場所になりました。女川を娘たちの古里として、家族4人が元気に暮らしていけたらと願っています。

<震災そのとき>
 女川港近くにあったアパートの2階にいた時、津波が押し寄せ、家ごと内陸に流された。室内にあったカヌーに乗った状態で、周囲の家々も流されていく様子を見た。引き潮になってパチンコ店の角に衝突しそうになり、ベランダからアパートの屋根に飛び移った。屋根の上で凍えながら一夜を明かし、翌朝、通行人に助けを求めて隣の建物から引き寄せてもらい、女川町総合体育館に避難した。

2020年12月03日木曜日


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December 03, 2020 at 12:08PM
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