「観測するまで物事の状態は決定されない」「全ては確率」
そんな中二心をくすぐるワードでいっぱいの量子力学ですが、私たちに見える世界はそんな曖昧なものではなく、もっと盤石で決定論的なものに見えます。
アルベルト・アインシュタイン博士は量子力学を生み出した功労者の1人ですが、最後までこの曖昧な量子力学の考え方を受け入れることはできませんでした。
量子力学の発展に大きな貢献をしたエルヴィン・シュレーディンガー博士も、同じく量子力学の主張する確率解釈を受け入れることはできませんでした。
シュレーディンガーに至っては「私の波動方程式がこんな風に使われるのなら、論文などにしなければよかった」と嘆いたほどです。
しかし、量子力学はその不可思議な主張を柱にしながら、大成功を収めた理論であり、現代ではほぼ完全に受け入れられてしまっています。
SFネタとしては興味深いですが、現実の話としてはずいぶんと突飛で難解な量子力学。
これらは一体どのようにして発見され、今に至ったのでしょうか?
ただ解説されるだけでは難しすぎる量子力学の世界を、ここでは歴史の観点から追ってみましょう。
量子の発見
量子力学の歴史はマックス・プランクの黒体放射の研究から始まります。これは光のエネルギーと色の関係を調べる研究でした。
ガスバーナーやコンロの炎は赤色より青色の方が温度が高く、夜空の星々も赤より青く輝く方が高温の星です。
熱した物体は光を放ちますが、これは温度によって色が変わります。これは古くから知られている事実でした。
しかし温度と色にどういう関係性が成り立つのか? という問題は長らく謎のままでした。
温度とはすなわち光の持つエネルギー量を意味しており、色は光の波長によって決まります。温度と色が相関関係を持つということは、光は波長(振動数)でエネルギー量が決まっているはずです。
しかし、こうした考えで作られた方程式は、なぜか長波長(赤外領域)に向かうほど実験結果と大きな誤差を生んでしまいました。
なぜ波長が伸びるほど、計算と実験結果はズレてしまうのでしょうか?
波長が長くなると、振動数は増えることになります。実験結果は振動数が大きいほどエネルギー量も大きくなることを示していました。
そこでプランクは、もっとも単純な解決策として、振動数に定数を掛けるというアイデアを採用します。
そして、光が1回振動するときに現れる最小エネルギー量を実験結果から導き出し、定数として方程式に組み込んだのです。
それが「E = hν」という数式です。Eとは光のエネルギー、ν(ギリシャ文字「ニュー」)は光の振動数を表します。そしてhが導入された定数「プランク定数」です。
プランク定数hは6.626 × 10-34という恐ろしく小さい値です。日常的なスケールではまず気づくことのできないものでした。
こうして作られたプランクの式は、ピタリと実験結果と一致しました。
しかし、プランクはこれを単に計算の辻褄を合わせるためにやった窮余の策と考えていました。
なぜなら、プランク定数の意味を考えた場合、それは光が連続した波ではなく、「hν」という飛び飛びの値で変化する粒子ということになってしまうからです。
プランクは光の正体が波ではなく、決まったエネルギー素量を持つ粒子であるとはとても考えられなかったのです。
しかし、この「hν」という塊は、後に量子と呼ばれることになり、物理学の様々な局面で重要な意味を持つようになるのです。
波? 粒子? 浮上した2重性の問題
光の2重性問題は古くからあり、かのアイザック・ニュートンは光を粒子だと考えていました。しかし、同時代の物理学者ホイヘンスは、光がエーテルという媒質を伝わる波であるという主張しました。
この議論は、最終的に光が波であることを示す実験結果が見つかったことで決着します。
有名なヤングの二重スリット実験は、光が波であることを証明するもっとも有力な証拠でした。
しかし、そんな物理学の常識は、アルベルト・アインシュタインの登場によって打ち砕かれます。
アインシュタインといえば、相対性理論で有名ですが、最初にノーベル賞を受賞した功績は、光電効果の原理を説明した功績によるものでした。
光電効果とは金属にぶつかった光に弾かれて電子が飛び出す現象です。
光電効果では、振動数の低い光は長時間照射しても、光量(明るさ)をどんなにあげても、電子が飛び出しません。ところが照射する光量がどんなに弱くても、振動数の高い光を当てると電子が飛び出しました。
そして、飛び出す電子の運動量は振動数に比例していて、飛び出す電子の数は光量に比例していたのです。
これは光を波として捉えた場合、うまく説明することができませんでした。
アインシュタインは光が振動数に応じたエネルギーを持つ光量子だと仮定すれば、全てがうまく説明できることに気づきました。この場合、明るくすることは光量子の数を増やすだけということになります。
「電子を追い出すために必要なエネルギーは金属ごとに異なり、飛び出す電子の運動エネルギーは閾値となる光量子の振動数から始まる直線になるはずだ。そして、そのとき描かれるグラフの傾きはプランク定数hになるだろう」それがアインシュタインの考えでした。
ここでアインシュタインは、光電効果を説明するために、プランクが生み出した量子仮説を利用するのです。そしてそれは見事に現象を説明していました。
しかし発表当時、光を粒子と捉えるこの理論に多くの物理学者は懐疑的でした。プランク自身も、アインシュタインの光量子に関する論文は素直に受け入れることはできなかったといいます。
アインシュタインは、現代においては偉大な物理学者ですが、当時はスイスの特許局に務める公務員のアマチュア科学者でした。彼の論文は高く評価されましたが、この時点では彼の主張を手放しで信用する人はいなかったのです。
ノーベル賞も、光電効果を説明する方程式の発見を評価したもので、光量子という概念の導入についてはスルーしました。
アメリカの実験物理学者ロバート・ミリカンもその1人で、アインシュタインの間違いを証明してやろうと、10年近くもかけて光電効果の詳細な実験を行いました。
しかしその実験で得られた結果は、全てアインシュタインが正しいことを示すものだったのです。
ミリカンは、この功績により思惑とは反対にアインシュタインの光電効果理論を実験で証明した人として、ノーベル物理学賞を受賞してしまいます。
しかし、その受賞の場でさえも、ミリカンは光が粒子であるとは考えられないと語ったそうです。
結局光は波なのか粒子なのか? どちらについても有力な証拠が出てきてしまい、当時の物理学者たちは大いに混乱しました。
原子の中はどうなっているの?
19世紀の終わりから20世紀の初め、光量子の問題と共に、もう1つ物理学界を揺さぶっていた問題があります。
それが原子の中はどうなっているのか? という問題です。
これは、レントゲンのX線発見の報告を発端に物理学の重要なテーマになっていきます。
この分野で目覚ましい活躍をした物理学者の一人が、アーネスト・ラザフォードです。
ラザフォードは、アルファ線、ベータ線(当時はウラン線と呼んでいた)の発見をはじめ、助手のガイガーと共に放射性崩壊による元素変換を発見してノーベル化学賞を受賞するなど、目覚ましい成果をあげます。
彼の功績はまだ原子の存在自体を疑問視する物理学者が多かった時代に、原子の実存性を決定付けるものでした。
そんなラザフォードとガイガーは、アルファ粒子の正体がなんであるかを研究しているとき、金箔にぶつけたアルファ粒子がたまにあり得ない方向へ散乱することに気づきます。
さらに研究をすすめると、あろうことか跳ね返ってくる粒子があることも発見するのです。
なぜ高いエネルギーを持つアルファ粒子が、薄っぺらい金箔で跳ね返るのか? これは紙の壁に大砲を打ち込んだら、そのままこちらへ跳ね返されたというくらい衝撃的な現象でした。
ラザフォードはこの原因が原子の構造にあると考えました。そして、原子の中身が正電荷の大きな核を中心に電子が惑星のように軌道を描いて回っているという原子核モデルを思いつくのです。
アルファ粒子は正電荷の粒子です。アルファ粒子が極稀に跳ね返るのは正電荷の原子核にぶつかったためで、たまに散乱を起こすのは、原子核の周りに浮かぶ電子の極近距離を通って影響を受けたためと考えたのです。
このときラザフォードの考えた原子核モデルは厳密には正しくないのですが、現代の私達が原子を思い浮かべるイメージの原型になりました。このモデルは、正確では無いにも関わらず、カッコいいので今でもアメリカ原子力委員会の記章になっています。
しかし、このモデルは発表当時は真面目に受け取られませんでした。なぜなら古典物理学の理論では、このモデルは成立しないからです。
荷電粒子が高速で運動した場合、そこからは電磁波が放射され、電子はたちまちエネルギーを失います。これはマクスウェルの電磁気学から明らかにされている事実です。
そうなると電子は軌道を描いて惑星のように回り続けることはできず、たちまち原子核に墜落してしまいます。
ラザフォードは実験結果からこれがかなり正しい原子の姿だと考えていましたが、本人を含めて当時は誰もそんな原子核が現実に成立するとは信じることができませんでした。
こうした中、ラザフォードの研究室に新たなメンバーとして加わったのが、量子力学の最重要人物ニールス・ボーアです。
当時ボーアはJ・J・トムソンの研究室に所属していましたが、知り合いにラザフォードを紹介されてその人柄に惚れ込み、ラザフォードの研究室へと移籍してきました。
ボーアは、ラザフォードの考えた原子核モデルはかなり現実に近いと考えていました。そして、原子核に電子が落ちないようにするためにはどうしたら良いかを考えはじめました。
そこでボーアが採用したのが、電子の軌道の量子化でした。電子は自由にどんな軌道でも回れるわけではなく、決まったエネルギー準位の軌道だけを回っていて、その軌道にあるときはエネルギー放射を行わないと仮定したのです。
これは実際はどうあれ、まずは実験結果と一致した法則を作り出すという、プランクと同様の手法でした。
こうした理論を模索する中で、ボーアはいくつかの重要な研究に出会います。
その1つが、当時物理学者たちの間で謎となっていた元素の線スペクトルの問題でした。
化学の分野に、金属を燃やしたとき元素に応じて炎の色が変わる炎色反応という現象があります。これは昔から知られているものでしたが、19世紀になると、この炎が放つ光のスペクトルに特定の線が入るということが知られるようになります。
元素によってこの線のパターンは決まっていました。いわば元素ごとに持つ光の指紋だったのです。そのため線スペクトルは、現代では天文学において、遥か遠方の天体の構成元素を知るために利用されています。
しかし当時は謎の現象でした。
そんな中、数学者のヨハン・バルマーは実験データからこの線スペクトルの出現する波長を予測する方程式を見つけ出します。ただ、線スペクトルが現れる理由はわかっておらず、なぜバルマーの式が線スペクトルを予測できるのか誰にもわかりませんでした。
ただし、ボーア以外は。
彼はバルマーの式を見て、これが電子の軌道に関係しているということに気づきます。
ボーアは、線スペクトルが「原子内で電子が軌道を飛躍した際に放射したエネルギー」なのだと考えました。
原子内で決まったエネルギー量の軌道を回る電子は、外部から熱エネルギーなどを受けた場合、エネルギー量の高い軌道へ移動します。しかし、電子はすぐにそのエネルギーを放出して安定した最低エネルギー状態の軌道へ戻ろうとします。
この放出されたエネルギーが、光の筋となって線スペクトルに現れるのです。ボーアの計算したところ、それは軌道ごとのエネルギー差と見事に一致しました。
そして、このとき放出されるエネルギーも、やはりプランクが発見したhνという量子で導かれました。
こうしてラザフォードの原子モデルの問題も、プランクの量子仮説によって解消され、ボーアによる新しい原子モデルが確立されるのです。
ボーアのこの仕事は世界で高く評価され、彼は祖国デンマークのコペンハーゲンに自らの研究所を設立することになります。
それは後に、量子力学研究の重要拠点となり、コペンハーゲン学派と呼ばれることになります。
研究所設立の翌年、1922年、ボーアは原子物理学におけるこれらの功績によってノーベル物理学賞を受賞します。
量子力学の世界は、こうして少しずつ開拓されていきました。しかし、この時点では、まだプランク定数で現される量子が一体なんなのか? 単なる計算の都合なのか、誰も説明することはできなかったのです。
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March 08, 2020 at 06:03PM
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