長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。 ※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
鮮やかな印象を残して
令和元年秋場所後、かつて益荒雄として相撲史に鮮やかな輝きを残した阿武松親方が体調不良を理由に、角界からきっぱりと去っていった。 私が新弟子・手島広生(親方の本名)に初めて会ったのは昭和54(1979)年3月、大阪府茨木市の押尾川部屋宿舎だった。 それから40年、「阿武松部屋」で彼が弟子たちに遺していったものは「あきらめない精神、魂のDNA」と久子夫人も語っている。『押尾川新聞』を担当する私が痛感したのは“稽古に精進する厳しい姿勢“と、“妥協しない生き様”だった。 親方の「次世代の指導者を育てたい」の原点は『白いウルフ』に沸いたときにあった。
福岡県糸田町から186cm・83kgでの一番出世
大関大麒麟の「押尾川部屋」が誕生したのは昭和50年11月。翌51年、江東区木場に新たに部屋が完成、9月に「土俵開き」となった。 澤田一矢氏らの「三筆工房」により機関紙『押尾川部屋』(年3回発行)の第1号が創刊されたのは、53年9月場所番付発表日で、小生も第2号(53年12月)から編集に参加、第3号は大阪に出向き、「新弟子インタビュー」を第一面に掲載した。福岡県田川郡糸田町出身の手島広生(昭和36年6月生まれ)が、押尾川親方の強い誘いから飯塚高等学校を2年修了の時点で中退。初土俵を踏んだのは17歳の昭和54年3月場所。中学1年の時から5年間は柔道で、福岡県大会にも出場している。 早朝から新弟子としての雑務、稽古に励み、序ノ口以降、連続の勝ち越しもあり、翌年3月には新三段目に昇進。 9月場所前の第7号では、「思い切りのいい頭からの立ち合いと、得意の右四つで攻め込むのが自分の型。腕の力に頼り過ぎるのを反省、足腰をさらに鍛えます」と答えている。押尾川親方の「下手からの投げに頼らず頭をつけ、上手からの攻めも大切に」に応えて稽古もさらに充実。翌56年11月に幕下へ昇進。58年7月には待望の十両昇進を実現。
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December 01, 2020 at 10:10AM
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【私の“奇跡の一枚” 連載95】“妥協のない生き様”を貫いた『白いウルフ』元関脇益荒雄・阿武松親方の40年に思うこと(BBM Sports) - Yahoo!ニュース
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