3.11から 私の10年(13) 富谷市・菊地康宏さん
2011年の東日本大震災から来年3月11日で丸10年となる。石巻かほくは11年6月11日から12年3月9日まで、被災体験を克明に記録した「私の3.11」を連載した。当時の巨大地震と津波を証言した石巻地方の被災者たちは、あの日を生き抜いて懸命に歩みを続ける。何を思い今、そして未来へと紡ぐのか。新たな軌跡を証言してもらう。(横井里花)
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■富谷市、学習塾経営 菊地康宏さん(55)
東日本大震災前に経営していた中学生向けの学習塾を、石巻市渡波町の現地で再開したのは2011年6月1日。通っていた約20人が戻ってきた。前に進めた実感が湧いた。
塾には、母子家庭で母親を亡くした男の子がいた。英語の例文で「母」を「姉」に変えたりと気を遣った。ただ、いずれ彼は大人になる。「今は支援がたくさんあるけれど、その先は自分で乗り越えないといけないぞ」と伝えた。「そっちの方が楽だよ」の返事に私も少し楽になれた。
子どもたちと向き合い続ける中、13年1月に、子どもらが夢を語る「ドリームプラン・プレゼンテーション☆東北魂2013」を仙台で見て感動した。「地元の子どもたちにも語れる場をつくってあげたい」
有志で実行委員会を立ち上げ、委員長を務めた。夢は見るものじゃなくかなえるもの。夢を語れば今頑張っている意味が見えてくると伝えたかった。
14、15年と石巻で「巻っ子ドリプラ」を開催した。子どもたちが夢を語れる状況になったことを全国に発信したかった。お世話になった震災ボランティアの人たち10人ほどが手伝いに来てくれた。思いをつなげることができた。
震災の後、富谷市に転居したが、渡波小の児童数が激減したこともあり、17年に、富谷市と渡波の中間にある東松島市赤井に塾を開いた。赤井は対面授業、渡波の子どもたちにはオンラインで授業を配信している。
震災後、「今、本気で頑張っているか」と自分に問う時間が増えた。震災直後の経験があるからだ。
あの日、私は女性の救助を諦めてしまった。住宅の屋根にいた子ども3人を助け、両脇と肩に抱えて水の中を歩いていた。「助けてください」。女性の声に、私は「ごめんなさい」と答えた。助けたい気持ちはあったが体力的に限界だった。後日、女性は遺体で見つかった。
震災を忘れてはいけない。でも忘れてしまいたい。いつも塾で子どもたちに頑張れと言ってきたのに、私が頑張らなければいけなかったのは「あの日」だったんじゃないかと、今でも思う。
震災から10年が目前だ。環境は変わったが、いつかまた渡波の塾に子どもたちを迎えたい。強く思う。
<震災そのとき>
石巻市湊地区を歩いていたときに震災が発生した。渡波町の自宅にいた両親と、近くに住んでいた足の不自由な叔母を渡波公民館に避難させ、同市渡波黄金浜の妻の実家に着いたときに津波が来た。2階に避難後、遠く離れた住宅の屋根の上に子どもたちがいるのが見え、救助に向かった。家で一晩保護し、翌日に渡波小へ連れていった。子どもたちが母親や祖母と無事再会した姿を確認できた。
2020年12月05日土曜日
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December 05, 2020 at 10:03AM
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